《その漆黒のビロードに広がる星々の輝き》
王子が絵を描くことが好きであると知ったのは太陽宮に来てしばらくしてからだった。公的な場以外の会話では
敬語もとれ、王宮における王子の立場というものも嫌というほど知りそれでも王子は真っ直ぐに育っていることに旧
友の子に対する愛情の深さと彼自身の強さを感じて感心していたような頃。
フェリドから彼の愛しい息子を呼んできてくれと頼まれて足を向けた王子の部屋の前、そこには常に彼の傍に控
えている護衛の見習い騎士の姿があった。
「リオン、何をしているんだ」
「あ、ゲオルグ様。王子に御用ですか?」
「そうなんだが……お前は中に入らないのか」
「今は駄目です。王子のお邪魔になってしまいますから」
午前中に勉学の時間など終えているだろうに他に何かやることがあるのだろうかと不思議に思いつつ、リオンに
フェリドからの用だと伝えると、彼女自身も知っていながら失念していたらしく酷く慌てていた。
「ああっ、もうそんな時間になってしまったんですか!?どうしましょう、王子の邪魔をしてはいけないと思ってここで
待っていたんですけど……」
「入ってはいけないと言われているのか」
「いえ、そういう訳ではありませんが」
「では入ればいいだろう……入るぞレグルス」
軽くノックをして反応を待たずに扉を開けた。王族の部屋に入るにしてはあまりに無礼が過ぎる行為だが、彼らが
それを気にしないのだから構わない。
まず目に入ったのは彼の後ろ姿だった。表情は見えず、何かに向かって一心不乱に手を動かしている。何をして
いるのかを思えば、彼が向かっているのはラベンダー畑が描かれた大きなカンバス。一面が優しい紫色に包まれ
たそのカンバスから、ゲオルグはむせ返るように強いラベンダーの香りを錯覚させられた。
(確か俺はラベンダーが好きではなかった)
強く癖のある香りは長時間嗅いでいると気持ち悪くなる。
しかし今さっき感じた感覚は決して嫌なものではなかった。
(……これは、レグルスが描いたのか?)
ゲオルグが放心している間もレグルスはただカンバスに向かって筆を動かしていた。時に細かく繊細に、かと思
えばいきなり大味に動かすその筆の動きは絵を描いているというよりはまるでカンバス上でダンスを踊っているよう
であった。
「レグルス」
この部屋に来た目的を忘れてはならぬとゲオルグはレグルスに声をかけた。
だが、筆は止まらない。
「レグルス」
もう一度強めに呼びかける。それでも反応はない。そういえばゲオルグが入ってきたときも全くそのことを気にして
いない様子であった。入室したことすら気付かれていないのか、それともただ目の前のものに必死なため無視して
いるのか。
後ろに続いたリオンに目をやった。彼女ならばこの王子の扱いにも慣れているだろう。リオンはひとつ頷くとかの
王子の目の前、カンバスの後ろに立った。彼の筆が止まりカンバスから離れたのを見計らい、声を掛ける。
「王子、時間ですよ!」
それと同時にリオンはイーゼルからカンバスをすっと取り上げた。
「……リオン?」
「お楽しみのところ邪魔をしてしまい申し訳ありません、王子」
「ああ、ううん。いつでも声を掛けてくれていいんだが」
まるで瞬間移動で突然現れた人に対するような鈍い反応だった。実際彼にはそう思えているのかもしれない。正
に自分の世界に入っていたのだろう。これならリオンが部屋に入るのを遠慮する気持ちも、わからなくない。
「あれ、ゲオルグも?」
「先程からずっといた。声も掛けた」
「そうだったんだ。それはすまなかった」
「あれはお前が描いたのか」
リオンが手にしている先程まで向かっていたカンバスを指して聞いた。
「そうだよ……意外とか思ってる?」
「いやまさか」
「それともお似合い?」
「……まあ、否定はせんな」
歳や性別不相応の華奢な体つきに母親譲りの瞳と髪は、深窓の令嬢の如き雰囲気を彼に漂わせている。彼が
武術をたしなんでいると言えば驚かれ、勉学に励んでいると言えば納得されるのだろう。彼の立場云々はともかく
として。
「ラベンダーだろう、これは」
「分かるんだ」
「俺が花を知っているのは似合わんか」
「……ふふふ」
そうだね、と全く否定しようとはせずに筆を洗いつつ、王宮に贈られた花束の中にラベンダーがありそれを見て描
いてみようと思ったことを彼は明らかにした。
「いい香りだったから、沢山あったらすごいかと」
「すごいだなんてものでもないと思うが、あれは。きついぞ」
「ゲオルグ、知ってるのか」
「知らんのか?……ああ、この辺りにはなかなか咲かないか」
ファレナでは群生しているところを想像できず、また彼がそのようなところに足を運ぶ機会は相当少ないだろう。
(……花束の数本を見ただけであのラベンダー畑を描いたのか)
末恐ろしいやつだと軽く目を見開いた。
「で、ゲオルグが僕の部屋に来るってことは、何か用なのか?」
「お前忘れているのか」
「王子、フェリド様と約束した稽古の時間を過ぎてるんです」
「……え、そんなに時間が」
さあっと青くなる彼の顔は、焦った子供そのものだった。
その光景は常々見てきたいたものと何ら変わりはなかったが、彼が目の前にしているものはゲオルグの目をとめ
させるには充分すぎるものであった。
カーテンを引いて光があまり入らない部屋の中でもそのわずかな光を返して照り映える銀髪の三つ編みが僅か
に揺れる。彼はやはり部屋に入ってきたゲオルグのことになど全く気付きもせず自分の行為に夢中になっていた。
パレットから色をとり、カンバスに塗りつける。ただそれだけを繰り返す。
どの色を塗ろうだなど迷うことはなかった。パレットにはたった一色しか色は出されていなかったし、カンバスの上
にもそれだけしかなかったから。
混沌とした黒だけが。
「レグルス」
黒だけを塗り続ける。
「レグルス、止めろ」
カンバスの上に広がる混沌。
「レグルス」
彼の瞳には漆黒の渦が、混沌の闇だけが宿っている。
「止めろ、レグルス!」
思わず声を荒げて機械的に動き続ける彼の腕を強制的に引きとめた。
夢から覚めたように体を震わせ、ゆっくりとレグルスはゲオルグのほうへと顔を向ける。
「……ん、ゲオルグ?」
「レグルス、お前……」
「よく分からないが、とりあえず痛い」
「……ああ、すまん」
彼の腕を強く掴んだままであったことに言われてようやく気が付き、慌ててそっと手を放す。
「で、何か用なのか?」
「……ルクレティアが呼んでいる」
「ああ、分かった。ゲオルグもお使い要員か……ルクレティアも容赦ない、ね」
くす、と笑いを漏らすその姿からはどこか影があるように思えた。黒々としたパレットと筆を脇に置いて、彼は描き
かけのそれを片付けようと立ち上がる。
「お前は」
「はい?」
「お前には、何が見えているんだ?」
花束の中の数本からラベンダー畑をつくりあげ、本の中の一ページから行ったこともない群島の海を波立たせる
ことができる彼が、その目の前に漆黒の世界を広げるようなものをその目に見ているというのだろうか。
そして、そうだとしたらゲオルグにはいくらでも思い当たることはあり、彼にそれを見せている自分や周囲を呪わず
にはいられないだろう。
レグルスは思いつめた顔で問い掛けるゲオルグをじっと見つめていたが、ふと顔をほころばせた。
「ゲオルグは多分、勘違いしている」
「何?」
「この画面は決して一色じゃない。よく見て」
そう言ってレグルスは窓に向かって歩いていくと、カーテンをさっと開けた。薄暗かった部屋の中に溢れんばかり
の光とともに、カンバスの上の画面もくっきりと色が浮き出てくる。
「黒い?」
「黒い」
「それだけ?」
「……いや」
紺も、青も、緑も、臙脂も、灰も。
一つの色で埋められたと思われていたその画面は、多くの色とともに埋め尽くされていた。雑然としすぎたその
混ざり方は、光がよく入らないところでは黒一色にしか見えなかったが。
「これ、最後の仕上げがまだなんだ」
「仕上げ?」
「今夜空いてる?」
「……何?」
「一緒に、この続きを埋めようか」
レグルスは画面の暗さとは相反した柔らかな笑顔をゲオルグに向けた。
「いらっしゃい。星の祝福を受けた空間にようこそ」
指定された場所は城の最上階、黒衣の美女が番人を勤める封印の間の目の前だった。石造りの床の上に立て
られたイーゼルと、その上にあるのは漆黒の画面。呼び出した当人の手には筆とパレットがある。
「星の祝福、だと?ここは何か特別なことでも……」
「ああ、そうだね。上を見て」
「上?」
「今日は新月だから。星の独壇場だ」
宝石箱をひっくり返したような、溢れんばかりの星々の瞬きがそこにはあった。
「ソルファレナよりもずっと空が近い」
「……ああ」
「じゃあ、仕上げだ」
パレットにはすでに十数種の色が並べられていた。細い筆の先にほんの少しだけ色をとり、漆黒のカンバスの上
に乗せる。ちょん、ちょんと細かくひとつの星を作り上げるために何種類もの色を重ねていく。彼が作り上げる星は、
その全てに色の違いがつけられていた。
「……星空、か」
精密作業にも似た行為を、時たま頭上の見本を見上げながら淡々と続けていくレグルスの姿は、星の光の中で
輝いていた。
「星を、描きたかったんだ」
「ここまで細かくする必要があるのか?」
「ゼラセが言っていた。人は星の下に集まっていると。ならば、これは僕。それからこれはリオン、これがルクレティ
ア、ゼラセ」
細かく違いのつけられた星を一つずつ指して、レグルスは説明していった。
「……ゲオルグは、これ」
彼が指したのは、赤色と橙色が混ざった暖かくも鈍く光る大きめの星だった。
後にして思えばレグルスが描いていたものは風景画などばかりで、人物を描いたものは一枚もなかった。
そう、花束の中の数本からラベンダー畑をつくりあげ、本の中の一ページから行ったこともない群島の海を波立た
せることはしても、絶対に傍にいる最愛の家族の姿をつむぎだそうとはしなかった。
⇒少し勘違いゲオルグと、 とりつかれたように絵を描く王子。狂気にも似た星の夜。
カイルとゲオルグで
「あー、ゲオルグ殿、王子がとり憑かれたときにお部屋に行ったでしょう?」
「とり憑かれた?……言い得て妙だな」
「俺も一回怖くなってあれをとめちゃいましてね。王子に思いっきり変な顔されちゃって。本人はただ夢中になっているだけのつもりらしいですけど」
「そのようだな」
「でも、あそこまで黒々とした画面をただ塗り続けるだけって言うのも一種の狂気だと俺は思うんですけど」
「……」
「王子って絶対に人間を描かないんですよね。どこかで、俺たちと違うものを見ているんじゃないでしょうか、あの子は」
……カイルが出てくるのは、愛?