《時を止めて》

 

 オベル王国は開放された。

 クールークの支配から解き放たれ、どれだけその跡が残っていようともその跡を残した者たちが戻ってくることは

ない。

 歓喜で王国中がむせ返っている。王である父も珍しく正装をして民の前に立ち、帰還を告げ、そして彼らにわび

た。民衆は王の帰還を待ちわびており、それを受け入れてくれた。

 今はみんなが笑顔で喜び、戦時中であるがゆえ、しかしそれでもささやかな宴があちらこちらで繰り広げられてい

た。

 

 喜ばしいことだ。

 そのはずだけど。

 

「けじめは、つけないといけないからな」

 王宮の前で王を待ちわびるたくさんの群集の声を聞きながら、彼らの前に出る前に、正装をした父は私に向かっ

てこう告げた。

 そんなことを言ったのは、私がどうにも納得のいかないといった顔をしていたからだろうか。顔に出していたつもり

はなかったのだが。

 しかし、そういう父のほうがよっぽど感情との折り合いがついていない表情をしていた。それでも父は王であり大

人だった。

「お前は民に顔を出したらすぐに下がれ。……シエルを、みてやってくれ」

「……わかったわ。ありがとうお父さん」

 

 この国は解放された。

 一人の少年の、まさに「命をかけた」力によって。

 

 納得していないわけじゃない。この国が解放されたのは当然喜ばしいことだし、みんながそれを待ち望んでいた

のだから。

 

 当然だが彼が倒れていることなど表向きには知らせていない。知っているのはその時甲板に出ていた人間だけ

で、その他には口止めをしている。軍の頭が倒れたなんて、周りを騒がせてしまうから。

 だから、この出来事は喜ぶべきことなのに。

 私は喜ばなくてはならないのに。それが仕事であるはずなのに。

 私は民の前でちゃんと笑うことが出来なかった。

 どこか引きつった、乾いた笑顔しか出来なかった。

 

 彼はまだ眠っている。いつ起きるかもわからない深い眠りの中にいる。

 

 

 

 

 

 

 父と同様に私も正装は好きではない。ずるずるとしたものを引きずらねばならないから。動きが制限されるのはい

らいらする。ただ夢中で彼のもとへと行こうと王宮の廊下を必死の形相で進むのに足がもたつく、この苛立ち。急ぐ

のは気持ちだけで、歩調は決して速くない。

 先ほど廊下で会ったジュエルの話によると、彼らはこの二日間オベルの復興に顔を出す傍ら交代で彼の看病を

続けているようだ。ラインバッハが持ってきたという花のために花瓶の水をかえるという彼女と別れ、今は部屋に一

人だという彼のところへと向かった。

 謁見の間とは全く違い、王宮の奥はとても静かでしんとした雰囲気をもつところだ。表では民とふれあい、その裏

ではきちんとした個人の時間を取れるように。王宮の一番奥に位置する普段使っていない部屋へと向かった。さす

がに騒がしくしてはいけないということにようやく思い至り、歩調を和らげ部屋の前で足を止める。

「……」

 深呼吸を一つした後、彼の眠る部屋の戸を開けた、

 

 はずだった。

 

 

 その部屋に一つしかないベッドはもぬけの殻となっていた。

 眠っているはずの彼の姿はどこにもなかった。

 

「……え?」

 思わず部屋を間違えたのではないかと辺りの部屋の戸を片っ端から開けてみた。だが生まれたときから慣れ親し

んだこの建物で、自分が間違えるなどということはあるはずがなかった。目を擦ってもう一度確かめてみても、やは

り彼はどこにもいない。

 顔から血の気がひいていくのがはっきりとよく分かった。

「――――シエル!?」

 今度は自分の身なりなど気にするはずもない。ひらひらする裾を捲り上げ、なりふり構わず走り出した。

 

 

 

 

 

 

 ―――罰を引き受ける者よ。すべての許しを引き受ける者よ。それは世界の始まりからの罪である。

 

 ―――そして、これまでだけでなく、この先の世界の罰を許す力を持つ。

 

 ―――それは与えられた権利。

 

 ―――与えられた資格。

 

 ―――何を、許す?

 

 

 

 

 

 

「……何で、いないのよ……」

 ただ走ったからといって彼が見つかるわけでもない。緊張と運動の両方から来る心臓の鼓動を疎ましく思いなが

ら、荒々しく息をした。

 とにかくまず王宮中を走り回った。部屋という部屋を片っ端から開け放っていく姿は神速とも思える神業であった

だろう。効率を上げるにも目撃情報を集めるためにも、人とすれ違うたびに彼のことを訪ねようと思ったが、それにつ

いてはどうしても躊躇せずにはいられなかった。

 罰の紋章を使った人間が、姿を消したのだ。

 それが意味するところは一つの結論へと収束していきかねない。フレアはそれが怖かった。そんなことはありえな

いと思っても、否定できないところにあるのだ。

 まるで母親が消えたときの不安と同じ様な寂寥感が胸を突く。

「……嫌よ、絶対に嫌……」

 王宮の中はあらかた探し尽くした。これ以上は外に行くしかない。この姿で出れば人の目に付くが、着替える暇な

どない。判断するが早く、フレアは外へと飛び出していった。

 夢中で走ってふと気がつくと、王宮の裏手にあたる、オベルの海と町並みが一気に一望できる夕焼けに染まった

丘を登っていた。何故こんな所にと考え込んだのは一瞬、自分は無意識に思い入れと可能性のある場所に来てい

たのだ。

 

 

 母がここを好きだといっていた。よくここに連れてきてもらっては三人で景色を眺め、母の子守歌の中でまどろみに

落ちていたものだ。

 シエルがここを好きだといっていた。仕事を終えた彼はよくここに来ていた。海と街の様子が一気に見える贅沢な

ところだといってはここに寝転んで目を閉じていた。

 

 

 思考がそこまで至ってようやく一息つく心の余裕が出来、深呼吸をして自分を落ち着かせた。ゆっくりと息をしなが

ら斜面を登り、赤く染まる丘の上に立った。鮮やかな赤色から、罰の紋章のどす黒い血色を思い出してしまったこと

はすぐに押し殺す。

 頂上から海が覗こうとした瞬間、目を開けていられないほどに強い一陣の風が吹いた。

 海風なんて珍しくなく、むしろこのような気候は普段からしかるべきものであった。しかしそれは潮風ではなく、純

粋な風だった。海のにおいを全く含まない、空気の固まりだったのだ。しかしそれには気付かなかったフレアは何と

も思わずに風がやんだ後にゆっくりと目を開いた。

 目を開いた彼女の前に会ったのは、赤色だった。

 

 

 

 夕焼けの鮮やかさでも、罰の紋章のどす黒さでもない。

 それは言うならば神聖な赤。

 儀式の地に立つかのごとき澄んだ力を秘めた色が、そこにあった。

 夕焼けの赤色からは浮きだった色が、そこにあった。

 

 

 

 丘の上に佇む赤色の影は、人の気配に気がついて振り返った。

 

 それは、捜し求めていた少年の姿だった。

 

「シエル……?」

 

 凛とした空気に包まれて彼はそこにいた。自分が着ているものと同じように、彼もまた正装のような姿をしていた。

赤色が目をひくシンプルかつ厳かな姿。正装が全く似合わない父とは対照的に、彼と一体となった赤色は風になび

く裾さえもその洗練された空間を作り出していた。

 

「あれ?」

 作られたような聖域を作り出していた赤色をした人影は、その空間をぶち壊す素っ頓狂な声を出した。声をかける

のを躊躇われていたフレアだったが、声を振り絞って何とか口を開いた。

「あの……貴方……その、……」

 

 

「どうかしたの――――――姉さん?」

 

 

 ――――今、何と呼んだ?

 

「もしかして探してた?ごめんね……やっぱり堅苦しい場所って苦手でさ」

 屈託のない笑顔で彼はフレアに歩み寄ってきた。自然に、優しく微笑んで。

 暖かい心からの親愛の笑顔。

「……姉さん?」

 ただ目を見開いて呆然とすることしか出来ないフレアの前にまで来た彼は、怪訝そうに彼女を覗き込んだ。

「姉さんってば、変なの……本当にどうかしちゃった?」

「……」

「もしかして……弟の晴れ姿に見とれちゃってる?嫌だなあ、照れるな」

 確かに父さんよりもは似合ってる自身はあるけどさ、と冗談めいて裾を上げた。

 

 彼は自分を姉と呼ぶ。

 弟が今私の目の前にいるのか。

 

 ああ、と一度納得すると全てが真実にすら思えた。

 罰の紋章なんて知らない。

 海賊に襲われたことだってない。

 私と、父と、弟と、そして……

 

 

「……何か喋ってよ。全く、今日の姉さんってばちょっと変だよね……ねえ、

 

 

 母さん?」

 

 

 彼は私の後ろへといきなり呼びかけた。

 振り返ると、陽だまりのように微笑む懐かしい母親の姿が、そこに――――

 

 

 

 

 

 

「フレア、さん?」

 声を掛けられて再び視線を戻すと、そこに立っていたのは赤ではなく黒い彼だった。

 鮮やかな赤い正装ではなく、寝かされていたときの黒いハイネックのシャツに灰色の上着を軽く羽織っている。シ

エルは僅かに眉を寄せてフレアのほうをじっと見つめていた。

「どうかしたの――フレアさん?」

 どこか陰のある労わりの笑顔でフレアを見つめていた。

「もしかして探してた?ごめんね……」

「……シエル」

「ちょっとだけ外に出たくなって……」

「シエル、貴方は……」

「……フレア、さん?」

 

 フレアは何も言わずにそっとシエルの体に手を回した。

 そして、ぎゅっと、抱きしめた。

「あなた、は……」

 気がつくと声も出せなくなっていた。溢れる涙を押さえるのに必死で。

 シエルは一瞬驚いて体を震わせたが、しかし動くことなくなされるがままにフレアを支えていた。

 

「……ねえ……あなた……は、だれ……?」

 

 もしかして……本当は、私の―――――?

 

 それはフレアの心からの問いかけだった。口に出した瞬間に何かが切れて涙が溢れてくる。

 シエルの胸が濡れていく中、ただ温かく確かな彼の胸で泣き崩れていた。

 

「……僕は、シエルだよ」

 

 凛とした響きの答えが返ってきたのは少し後。

 同時に、フレアは優しく包まれるように抱きしめられたことに気がついた。

 

「僕は『シエル』……初めは違ったかもしれないけれど、でも僕は、『シエル』として今ここにいる。『シエル』として皆

は僕のことを知っている。『シエル』を見てくれている。……それで、いいんだ。それが、僕の全てだ」

「でも、でも……」

 ぐしゃぐしゃになった顔を上げて彼を見つめると、彼は微笑んだ……一点の影もない、迷いのない顔だった。

「自分が今知っている全てが、今の自分だよ。だからフレアさんも、今の僕を見ていて欲しい。

 

 貴女には、今ここに『シエル』がいるってことを、見ていて欲しい」

 

 

 彼の答えは初めから決まっているようで、

 

 余計に寂しくなって、今この時だけは確かな存在としてここにいる彼をぎゅっと抱きしめた。

 

 

 

 

 

 

 ―――――……運命を。

 

 ―――――この身に降り注ぐすべてを、僕は許したい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

⇒シエルにフレアを姉さんって呼ばせたかった、赤色のオベル正装を着せたかった。それだけといえばそれだけ。題名→オベル遺跡BGMより。