Memento mori ―羊水の温度、開けた世界の光― 11/4

 

 

 

 

 

 

 彼が遠くに行った瞬間、周りの空気が一変した(ように感じた)。

 

 

 

 まるでどこかの異世界に迷い込んだような、宇宙の深淵に一人投げ出されたような、そんな気さえする。

 孤独……とは少し違う。確かにどこかにぽっかりと開いた穴があるのは自覚できたが、それ以上に感じたのは地

面の近さ、感触の確かさ。不確かでぼんやりとしていた視界が急に晴れ、ぐっと近くにものがある感覚。

 

 

 一歩を踏み出したとき、地面の硬さに驚いた。

 

 朝の静けさの中から、たくさんの音が聞こえることに気が付いた。

 

 

 何が起こったか(まだ)理解できない(理解したとしてもそれはきっとずっとずっと後の話だ)状態で、ただファルロ

スが何処かへと行ってしまったという事実と自らの身に起こっている(身体そのものに変化はない。あるとすればそ

れは感覚の)確実な変化だけが素直に分かることだ。

 昨夜のことで疲労が残っているはずの体だが、どこか目が冴えて、いや頭が冴えて仕方がない。目に入るもの、

耳に聞こえるもの、肌に感じるもののすべてが情報を伝えてくる。目まぐるしいほどの量に混乱しながらも頭はきち

んと動いている。その状態に理性は落ち着いているのに、感性がうろたえている。

 歩を進め、ベッドを離れて窓のカーテンを、開けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 かったりーなあ、とぶつくさ呟きながらも夜には行われるはずの祝宴を思い浮かべ、順平は体を起こした。昨日の

疲れは抜けないが、それ以上に充実感が体を支配している。いつもからは考えられないほど早く起きることができ

たのも奇跡というよりは必然だろう。窓の外を見れば朝日がまだ白んでいる。

 もう一度寝なおすことも考えたが目が冴えている。簡単に身支度を整えて順平は部屋を出た。ドアを開け、閉めよ

うとしたとき、それは視界に入った。

「何してんだお前?」

 声をかけるのが一瞬ためらわれたが、しかしすぐに口に出した。

 素直は軽く羽織った寝巻き姿のまま自分の部屋のドアに背を預けて崩れ落ちていた。周りをさえぎるように頭を

抱え、身を縮こまらせている。

 順平の声にびくり、と大きく体を震わせた。その反応に逆に順平が足を半歩下げる。ゆっくりと素直は顔を上げ

て、声がしたほうを向いた。しかしその目は固く閉じられたままだ。

「……順平」

「お前……何してんの、そんなカッコで」

「……ぶ、し……」

「はぁ?」

 

「眩しいんだ……目が、痛い」

 

「……何いっちゃってんの、お前」

「順平、そんな声、だった?」

「はぃ?」

 順平の訝しげな声には答えずに、素直は俯いた。

「寒い」

 肩を抱くように体を丸める。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 目を細めて入る光の量を少しでも減らそうとするが、その努力も甲斐はない。太陽に手をかざしてゆっくりと歩く。

足元がどこかおぼつかない。一歩踏み出すたびにつまずきそうになる。

 部屋のカーテンを開けた瞬間に入ってきた大量の太陽光にやられて思わず部屋を飛び出した後、結局は着替え

のためにもゆっくりと扉を開けて自室に戻った。ほとんど開いていない目で視界を確保しながら急いでカーテンを閉

め切って、適当に着替えを済ませる。軽く手櫛で髪を整えつつ洗面台へと向かった。

 まず今日始めて鏡に対面して自分の顔を見た。いつもと、同じ顔。

 鏡に手を伸ばし、そっと鏡面に触れる。鏡に映る自分の頬を撫ぜる。つぅ、とひそかに音を立てると共に指先の熱

が奪われていく。

 もう一方の手で蛇口をひねって水を出した。それに手をかざす。ひんやりとした感覚、水が手の上を流れていく気

持ちよさ。流れる音が耳の中で反響して奥の奥まで届いてくる。

 

 いつもと同じなのに何かが違う。

 

 こんなに世界は鮮明なものだっただろうか?

 こんなに刺激は強く伝わるものだっただろうか?

 触れるもの、聞こえるもの、感じるもの、全てが必要以上に情報を伝えてくる。

 

 こんなにも、いらないのに。

 

 こんなにあったら、困ってしまう。

 こんなにあったら、疲れてしまう。

 

 止め処もなく流れてくる星の数ほどの情報を、意識して放棄しようとする。どうでもいいと自分に言い聞かす。それ

なのに、流れる水にかざす手を引くことがなかなかできなかった。とても、心地よかったから。

 

 喪失感と、充実感と、疲労感を、一気に味会うなんて。何て疲れることだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 すでに寮には人はいない。いつも遅刻すれすれの順平も(次席は素直だ。時間ぴったりに学校に着くことが多い

から)、今日は珍しく早く出て行った。朝、部屋の前で会ったときは飛び跳ねてこそいなかったがやけにハイテン

ションだった(そんな内面の変化にまで自分の目がいっていることに素直は気付いていない)。

 どこかおぼつかない足取りでラウンジを抜け、寮の扉を開けた。何故か朝から目がやられているために、手で影を

作りながら外の光に備えた。

 しかし、そんなものは何の役にも立たなかった。

 

 まず空けた瞬間一番に流れ込んできた情報量に、眩暈すら感じる。突き刺すような陽光と共に町並みの色彩が

襲い掛かる。

 草木の緑から建物の目立たない色や信号の3色などまで色という色が素直の中に入り込んでくる。

 

 ―――眩しい!!

 

 思わず目を閉じようとするところだった。だが、その無機物たちの色は所詮は動きのない世界の一部に過ぎな

かった。真に目をやるべきはそこではない。

 

 

 世界の中で生きる人の姿。いや、これを生きていると呼んでいいのか。色彩の色濃さが他のものと全く違う。

 鮮やかに主張する周囲のものたちを背景としているのに、彼ら自身の色が後ろに溶けてしまうほどに希薄な存在

ばかり。

 

 

 見ているものが信じられず、目を傷めながら見開いた。乾燥して涙が出そうになるほど瞬きもなしに、ただその画

面を見入り続ける。

 

 素直にとって驚くべきことは人の色の薄さだけでは決してない。何故なら、彼にとって世界は今まで単調な光しか

返してこなかったからだ。景色を眺めても背景とモノの境界線は曖昧で、何より人も生物も無生物も全て同じ次元

の存在に過ぎなかった。このように世界にあるものがひとつひとつ違って見えることがなかったのだ。

 

 素直は立ち尽くしていた。かなりの間痛いほどに眩しすぎる光をその身に受けながら、それでもその色の世界を

見つめ続けていた(気付かないだけで、それはしかし彼の目の変化だけでなく、彼の心と気持ちの変化だったこと

は言うまでもない。何故なら以前の彼ならどれだけその目に見える世界の景色が変わろうとも、それをなかったこと

にしようとしてしまうだろうから)。

 

 

 

 

 

 

 ―――怖い、よ。

 

 

 

 

 

 

(閉じられていた世界、見ないようにしていた景色の中には―――いいものも悪いものも両方あって、彼はそのどち

らともから逃げていたんだ)

(封じられることで守られていたというのも皮肉な話だ)

 

 

 

 

 

 

(人が最も無垢であるのは、やはり母親の中に包まれているとき。そして外に出た瞬間に喜びも悲しみも全てを経

験する)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

⇒ 闇たる混沌の死という羊水の中から抜け出た彼には世界は刺激物であり眩しすぎる……のが、光であり色。

 「奇跡が終わり、そして奇跡が始まる」で綾時が言ってた「世界を見るときにフィルターをかけていた」彼の第一のフィルター(デス)が外れた瞬間。

 0の存在とずっと共にあった主人公、そしてデスはやはり主人公の中に絶対的な領域を作り出していたんじゃないかなー・・・とか。

 2006/09/12 前半
 2006/09/13 後半追加

 こっそり・水のシーンのイメージはヘレン・ケラー。「w・a・t・e・r,w・a・t・e・r―――」って感じ(何