地上より墜ちる
足が地を離れるのも一瞬のことだった。
ふわりと足の裏そして爪先の感覚がなくなり、そのまま引き寄せられる。
頬が受ける風を切る感覚、頭を下にしてただ落ちていく。
ああ……落ちる、落ちる、落ちる……
目をやれば隣にあるのは月に落ちる塔、「奈落」――タルタロス。
タルタロスが月に向かってその切っ先を伸ばしていくのと同じくして、自分はその先駆けとなっていた。
落ちていく底を見れば、引き寄せるは緑色に輝く夜空の中に燦々と光る月の丸いこと。
引き寄せるは月、落ちる先は奈落の底。
落ちるままにその底を、深く輝く月を眺める。
このまま落ちていけば月に辿り着けるのだろうか。
このまま月に呑まれるのだろうか。
月に―――その闇に、呑み込まれる。
―――おいで。
月の中、手を伸ばす者がいた。
それは誰なのかまでは判別できなかったが、少なくとも聞いたことがある声に思えた。
月の中から延びる白い手の奥を見れば、その深淵に待っていたのは―――漠然とした、大きなカタマリ。
安らぎすら覚えるのに、どこか恐怖が芽生えた。
それは、あまりにも近くて遠い存在―――
月へと向かって、ただ
……墜ちる、おちる……オチル……
きっと夢を見ているのだろう。しかしその前の記憶は寝る直前のもので、思い出すことはできない。目覚めればた
だ急激な喪失感に見舞われる。
ただひとつだけ覚えていることは、月が空を飲み込むほどに大きかった―――それだけだ。
2006/08/26
落ちる夢は若者にとっては割とよく見てしかるべきものだそうで。体の成長と心の不調和が原因だとか。
主人公なんて心の不安定さが際立ちそうなイメージがあるよ。
音のない世界
月光館学園の目の前でその時が来るのを待ち続ける。腕時計をじっと眺め、カウントを開始。影時間の到来を待
ち遠しいと思うのか、それとも。
天田は腕時計のデジタル表示を見つめて息を凝らす。何度挑んでもタルタロスという場所は現実とは一線を画し
ており、そこに足を踏み入れるということはやはりそれなりの緊張を伴う。他のメンバーの前でどれだけ大人びよう
としたって、これは年齢の問題ではない気がするし……それともやはりこういう考え方そのものが子どもっぽいのだ
ろうか。
もうすぐ影時間。
タルタロスに登る。
自分に言い聞かせるように反芻する。誰にもばれないようにこっそりと息を吸って、吐いた。そして再び文字盤に
目をやる。11時57分。後3分。
夜の闇の中は静かで、自分の心の声がよく響く気がする。周囲の皆もただじっとそのときが来るのを待っている。
いつも喋っている順平さんすら影時間の直前は静かになる。
静か過ぎるからこそ、その音はよく響く。
周囲を包む沈黙を破る唯一の音源を見上げた。イヤホンからこぼれるアップテンポのメロディー。歌詞までは聞き
取れない。おそらくは英語だと思う。
藤草さんはイヤホンに手を軽く添えている。まるで周りのすべてをシャットアウトしているように。
この人は機械が動かなくなる影時間であってもそのプレーヤーは手放さない。耳につけなくても首から提げてあ
る。動くのに邪魔じゃないのかと思ったけれど、それは全く問題ないらしい。
軽く目を閉じ俯いて、ただイヤホンから流れる音楽に身を委ねる。
影が落ちた。空が緑色の雲に覆われると同じくして、目の前の建物が空へと伸びていく。タルタロスの影が天田
たちを包み込む。
同時に音が消える。唯一の音源までもが消え、世界が完全な沈黙に包まれた。藤草さんは音が消え、タルタロス
が出現し初めてもなおイヤホンを外そうとはしない。音が消えていることを確かめるように耳に当てている。
タルタロスが動きを止める寸前に藤草さんは顔を上げた。ゆっくりとイヤホンを外しつつ、空を仰ぐ。夜闇に伸びる
タルタロスを見上げて、ゆっくりと息を吐いた。
天田の目線からでは藤草さんがどのような表情をしているのか、何を見ているのか、分からない。ただ空を見る彼
の姿を下からこっそりと覗き込むことしかできない。
タルタロスに月が被っている。
もしかしたら藤草さんは月を見ているのかもしれない。
「行くぞ」
美鶴さんが声をかけた。
藤草さんはゆっくりと前を見て歩き出した。出掛けに天田の方をちらりと見てきた。
「何か?」
「大丈夫」
「え」
「どれだけ離れても、また戻ってくるから」
……この人は、どこまで分かっているのだろうか。
止まる音楽は開始の合図。
音のない世界に飛び込んで、戻ってこようと願うため。
それは音のある世界への唯一の手がかり。
2006/08/30
イヤホンを外す様子をえがきたかったのと、身長差による景色の違いを出してみたかった。
メリハリがないと境界があいまいになりかねないと思うのです。精神的に。