1 ―13階段への一歩―

 

 

 

 少年は影時間に訪れる。

 友だちの下へ。

 それがどれだけ残酷で奇跡的な行為であるのかを、お互いに知らぬまま、知ろうとせぬままに。

 時は、来る。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「何だか元気がないみたいだね」

 やはりファルロスは訪れた。どのような出来事が起ころうとも、それは変わりなく続く。素直もそれに慣

れていて、そして当たり前のことだと思い始めていた。

 大した疑問も抱かぬまま。大した変化も起こらぬまま。

 しかし。

「何か、あったの?」

 声を掛けられても、素直は目線を合わせずに目を伏せている。

 あの時、何かが、あったのだろう。

 何もない日なんてない。

 ただその日々をいちいち振り返ることをやめただけで、振り返ることが無意味なことと思っただけで。

 だから、素直には、あの日に何があったかなんて、

「……わからない」

「……そっか」

 ファルロスはしばらくの沈黙の後に、ぽつりとそう言った。

「わからないことなのなら……きっと、大したことじゃないんだよ」

「そう、かも」

「誰にでも常に終わりはやってくるもの……それは普通で、ありふれたことで、すぐに通り過ぎていくもの

で」

「……そう、かも」

「だから、きっと、大したことでも何でもないんだよ」

 そうなんだ。あの日起こった出来事だって所詮は人が一人死んだということ。地球では毎日一人二人

と言わずどれだけの人間がその生を終えていることか。その珍しくもない出来事のひとつに過ぎない。

いつものようにただ一言、どうでもいい、と言って考える事をやめればいい。どうでもいいことなのだか

ら、忘れればいい。大したことないことなのだから、何も思わなければいい。

「大したことでも何でも……ないんだよね?」

 目を合わせずに黙っていると、ファルロスは躊躇するように問いかけた。自分の答えが合っているのか

間違っているのか、確認のため母親に問いかけるように。どこか不安げに。

 頭を上げてファルロスの方を向いた。

「そうだね……きっと、そう、だ……、……」

 そうなんだろうか?

 あの人が死んだことは、本当に、「大したことではない」のか?

「きっと、きっと……?」

 では、彼と過ごした時間はどうなる?彼がいなくても確かに時間は過ぎていくけれど、しかししっかりと

過去の記憶にはぽっかりと穴が開く。彼との思い出という穴が。それら全てをどうでもいいと、いえるの

か?

 以前の自分ならば、この港区に来る前の自分ならば多少の不整合があろうとも、どうでもいいと一蹴

できただろう。

「どうでも……」

 それらを全て放棄するということは、あの人の全てを放棄するということだ。あの人が生きていたこと、

あの人と話したこと、あの人が決意していたこと、全てをどうでもいいと言ってしまうことだ。

 それに際して彼らが決意したことすらも、無駄なことと言ってしまうことだ。

 それで、いいのか?

「……どう、でも……」

 あの人がした全てのことを、無駄なことと一蹴できるのか?

「……よく、ない」

 できない。あの人がした決意、そしてそれらを受け止めた人々がいることを、忘れることができるはず

が。

「そう、なの?」

 ファルロスは少し驚いたようで、でもどこか納得している顔をしていた。

「そうなんだ……」

「悲しい、よ」

「悲しいの?」

「寂しい、よ」

「寂しい、の?あの人が死んだことが、悲しくて寂しいの?」

 うわごとのように呟いた言葉が反芻される。それを聞いて、自覚する。

 ああ、荒垣先輩が死んで、自分は悲しいんだ。自分は寂しいんだ。

「……そう、だね」

「誰にだって等しく終わりはやってくる。それが少しだけキミよりも早かっただけだ」

「それでも」

「キミより先に終わりを迎えた者なんていくらでもいるのに」

「あの人のことは」

「……じゃあ、キミの両親は?」

 ファルロスが放った言葉に、固まった。

「キミの両親は、キミの目の前で死んだじゃないか。あの人と一緒だよ」

 両親が死んだあの日から、彼らの事は考えたことがなかった。考えようともしなかった。それどころか

素直は両親の顔すらも思い出せない。両親がどんな人物であったのかすらも記憶の彼方。優しかった

のか、厳しかったのか、そんな大まかなことも覚えていない。記憶喪失だというわけでもない、両親が死

ぬ前の記憶には遠い昔のことのように靄がかかってはっきりと思い出すことができないだけだ。そして、

きちんと思い出そうとも思ったことがなかった。思い出せないのなら大したことのないことなのだろうと思

っていたから。

 そういえば、そう。

 両親が死んで、素直は悲しんだのだろうか?寂しいと思ったのだろうか?

「……どうだった、だろう」

 葬式が終わって、親戚に引き取られる手はずも整って、それまでただずっとぼーっとしていた。

 では、その前はどうだ?死んだ直後の時はどうだった?だってファルロスは素直の目の前で両親が死

んだって――

「どうして、知ってるの?」

「え、何が?」

「僕の両親が、僕の『目の前で死んだ』って、どうして」

 素直ですらはっきりとした記憶を持たないその事実を、どうしてファルロスは知っている。

 素直は両親の死んだ時を思い出そうとする。それは彼にとってこの10年間で初めての試みだった。あ

のとき、何があった?

「……あのとき、」

 両親は、どんな理由で―――ああ、事故だ。事故があったんだ。車が倒れているシーンを思い出す。

多分これはムーンライトブリッジだろう―――交通事故か―――いや、

「10年前の、大事故―――?」

 桐条先輩や岳羽が関わりを持っているという、あの大事故。扱いとしては学園で起きた爆発事故では

なかったか?いや、飛び散ったシャドウがたくさんいて、事故は何ヶ所かで起こって―――

 ―――あ―――事故があった日にちは、同じだ。

 どうして今まで思い至らなかった。

「分からないよ」

 ファルロスの声が素直の思考を遮った。

「でも知ってるんだ。どうしてだろうね?」

「ファルロス」

 彼の顔は迷子のような、寂しげな表情。

 だけど―――聞かずにいられなかった。

 

 

 

「きみは、誰?」

 

 

 

 今まで思考の端にも浮かばなかった疑問、いや考えようとしなかったことが、タガが外れたように溢れ

出してくる。

 歯車の組み合わせが少しだけずれてしまった日、それは―――

 

 10月6日と7日の間の影時間、だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ここの主人公には過去の記憶がないというより、過去のことについて全く思考が及ぶことがなかったというほうが正しい。思い出そうともしなかったから考えにも及ばない。

ファルロスについても同様にそれが当てはまる。

…よってこのこと――疑問に思うこと――が、引き金となってこの話は始まる。

…始まるったら始まるのです。

2006/11/11