2 ―オードブルにはほろ苦い甘さを―

 

 

 

 カウンターの向こうに珍しい人影を見つけ、風花は思わず立ち止まった。

 奥のパソコンの前で素直が眉を寄せながらマウスを動かしている。調べものだろうか。カウンターのパ

ソコンは学校内や桐条のデータバンクとも多少だが繋がっている。『普通でない』調べものをするにはこ

こを利用するのが早い。かといって風花は調べものにここを利用することはない。ゆかりや桐条先輩から

頼まれた調べものも、自分のパソコンからやっている。

 彼はわずかに不機嫌そうに片肘をつきながら画面を見つめていた。マウスをクリックする音がどこか荒

々しい。……うまくいっていないのだろうか。

 声をかけるのも躊躇われる。もしも邪魔をされたくないようなことならいけない。

「……くそ」

 ぼそっと呟かれたその舌打ちに風花は驚いた。どんなときでもポーカーフェイスを崩さない彼が、『苛立

たしげに』吐き捨てたのだ。

 珍しい。

「あの……素直くん、どうかしたの?」

「……!山岸……か」

 風花が声をかけると、素直は顔を跳ね上げた。声の主が風花だと分かると、いつもの無表情に戻って

落ち着いた声になる。

「ごめんね……邪魔しちゃいけなかったかな」

 その言葉に素直は首を横に振った。先程までの苛立ちは影も形もない。

「それなら……よかった。……さっきから何か苦戦してるみたいだったから、思わず声かけちゃった」

「ああ……ありがとう」

 彼はほっと息を吐いた。

「でもちょっと意外です。何となく、素直くんって何でもスマートにやれちゃうんじゃないかって思ってたか

ら」

 風花が苦笑しながらそう言うと、ちょっとしたことにしか使わないから慣れてない、と彼は再び眉をひそ

めてため息をついた。

「それに、無秩序で膨大すぎる。情報の取捨選択は難しいな」

「何を調べてるの?もし不都合なかったら教えてもらえれば、私が調べることもできるよ」

「……そう、だな」

 風花が申し出ると、素直は躊躇するように言葉に詰まった。

「あ、ごめんね。都合がつかなければそんな……」

「違うんだ。そういうわけじゃ、ないけど……そうだな、山岸は……前に、」

 そうして言葉に詰まる。言いたくないとかではなくて、どう言おうか言葉を探しているようだった。

「岳羽に頼まれて、10年前の事故を調べてたでしょ?」

「え、うん」

「……あれって、どうやってやった?」

「どうやって、って……」

 彼が知りたいことはどうやら10年前のあの事故――全ての始まりとなったあの事件のことのようだ。

でも、何故今さら?後もうすぐ、次の満月さえ迎えれば影時間も消滅するというのに。それに、

「でも、それよりも……知りたいことがあるんなら桐条先輩に聞いてみたらどうかな?きっとその方が早

いですよ」

「桐条先輩……に、」

 風花の提案に、素直はわずかに目を伏せた。

「確かにそっちのほうが効率はいいんだろう、けど」

「……?」

「でも……」

「――ただいま帰還しました」

 玄関の扉が開き、コロマルの鳴き声と彼女の声がラウンジに響き渡る。アイギスはカウンターにいる

二人の姿を認めると、コロマルのリードを外してすぐ、一直線にそこに向かってきた。

「おかえり」

「あ、おかえりなさい。アイギス」

「素直さん、何をされているのでありますか?」

「……うん。ちょっと、ね」

 アイギスの質問に彼は言葉を濁した。風花には話してくれたし、別に正直に言えばいいことなのに、ど

うして?

 素直は僅かに困ったように口をつぐんで、しかし少し後に口を開いた。

「アイギスは、10年前のあの事故のとき……いたの?」

「『10年前のあの事故』といいますと、記録上は爆発事故とされている、大規模なシャドウの暴走事件

でありますか」

「そう、あのとき」

「私はあの時大破し、10年間機能停止状態にありました。それ以前の正確な記録はかなりの部分を失

ってしまっております。しかし、件の事件のとき私のシリーズはすべて出撃を命じられていたので、私も

確かに事件現場にいたであります」

「じゃあ、事故のことを、知ってる?」

「事件に関する記録は10年前のものしかありませんが……」

「ムーンライトブリッジで起こった事故のこと」

「……え?」

 素直の唐突な言葉にアイギスは目を見開いた。

「ムーンライトブリッジ、でありますか?タルタロス――月光館学園での事故ではなく?」

「うん」

「ムーンライトブリッジで何かあったの……?」

 風花が口を挟むも、それはアイギスの呟きに遮られる。

「……ああ、確かに、私は」

 アイギスはどこか遠くを見ながら呟いた。

「私は、そう、暴走したシャドウを止めるために、ムーンライトブリッジに」

「そこで、何が起こったか、知ってる?」

「そこまでは、メモリーから消えて」

 頭部のファンが音を立てて異常なスピードで回っている。熱を逃がすために。オーバーヒートを起こしそ

うな何かを押しとどめようと、必死に。

「知らないの?僕と、僕の母さんと、父さんに、何があったか」

「―――!」

「本当に、知らないの?」

 素直の目はアイギスを見ている。アイギスをただ、無感動に見つめている。

「ねえ、アイギス―――」

 

 ―――わんっ!

 

 コロマルの鋭い一吠えが、静寂を呼んだ。その声に反応して素直はアイギスから視線を外してコロマ

ルの方を向き、アイギスのファンの回転はゆっくりと停止し始めた。彼女の耳元からは少し焦げ臭いがし

た。

「……コロちゃん」

 呆然としていた風花はほっとしてコロマルの方を見た。テレビの横という定位置にいたコロマルはそこ

から動いてカウンターのほうにゆっくりと歩み寄り、素直の足元にまで来て、だらりと下がった彼の手を

ぺろりと舐めた。

「……ぁ……」

 素直は目線を下にして手元に纏わりつくコロマルの頭をなでる。コロマルは困った顔をしている(ように

見える)。

「ごめん、ね」

 どこか力なく微笑んだ。何度も何度もコロマルを撫で続ける。コロマルが痺れを切らしてむずかり始め

たのを見て、素直はようやく撫でるのをやめた。

「アイギス」

「……は……、はい」

「もう、いいよ……ごめん」

「い、いえ……いいえ、私は」

「ありがとう」

 彼は薄く微笑んだ。表情の変化が少ない彼にしてはよく分かるほどに、優しく、そして儚げに。

「山岸も、ごめん」

「あ……ううん……」

 風花がまごまごしている間に素直は早足で脇をすり抜け2階へと上がっていってしまった。

 アイギスはその姿を振り返らず、いや見ないように避けているようにすら見え、呆然と呟いた。

「私は……機械。与えられた使命を果たすために生まれてきた、機械……」

「……アイギス?」

「シャドウと戦うために生み出された、機械である……私は……」

 

 

 

「私が、そんな言葉を……貰う、資格……なん、て」

 

 

 

 忘れてはいけないことを残していないアイギスのメモリーが、記録されていない記憶の中から、慟哭の

声を聞いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

主人公には、アイギスのことは「どこか記憶の隅にあるんだけど、でもまだそこまで思考が及んでいない」状態。

一番「思い出したくない」情報でもあると思われるため、思索もそこまでは触れることができない。

…解説が必要なのも問題だなあ。

2006/11/14