3 ―そのステップはダンスの終わりを告げる―
「……これは」
寮のラウンジで上がってきた報告書の全てに目を通し終えた美鶴は、あからさまに難しげに顔をしか
めた。紙束とにらめっこしている美鶴を見て、さすがの真田も何かあったのかと彼女に声をかける。
「明彦……これを見てくれ」
「……何だこれは?」
渡された紙束、とはいっても厚さは精々10枚やそこらのものだが、それを受け取りぱらぱらと目を通
す。
「10年前の記録だ」
「……あの事件か。しかしまた何故今さら」
真田の紙をめくる手が止まった。用紙の中ほどに小さくある名前にその視線は注がれる。
「『藤草』……これは」
「ああ……藤草の御両親だ」
「あいつの親がいないって事は聞いていたが……この事故で?」
「……記録によると、そうらしい」
記録によると、と美鶴はどこか納得しない様子だ。何がそんなに彼女を悩ませることなのか。
「どこかおかしなところでもあるのか」
「私が初めに手に入れた彼の資料には、そのことは一切記載されていなかった」
真田は顔を上げた。
彼がこの寮に来た日、ペルソナ能力の有無に関わらず適正がある可能性を見出したことで、ある程度
のことはと彼の資料を学校側から取り寄せていた。その資料によれば、彼の両親は10年前に他界し、
その後彼自身は郊外の親戚に引き取られながら転々としてきた――と、簡単な経緯。
「彼の御両親は10年前に単なる『事故』で死亡――私が持っている記録にはそれだけしかなかった」
「……あの事件は全て『事故』の類で片付けられているじゃないか」
「確かにそうなんだが……桐条の関わる『事故』であった――それも10年前のあの事件だ――というの
に、その記載が一切なかったというのは」
頭を抱える美鶴を気にしながらも、真田は資料に目を戻す。
何人も並ぶ被害者名簿の中に小さく埋もれそうな二人の名前が並んでいる。『藤草』の苗字を持つ夫
婦と思しき二人。横に並んでいる死亡原因は『事故死』――それだけ。シャドウに襲われたなどといった
その他特記事項は何もない。
「しかしこれ、どうしたんだ?藤草には……黙って?」
「いや、彼から頼まれたんだ」
「あいつから?」
彼が自分から動くなんて珍しい。
素直が数日前美鶴に依頼したのは『10年前に起こった『あの事件』におけるムーンライトブリッジの被
害状況』を調べて欲しいというものだった。どこか躊躇いながら申し出たそれを美鶴は快く了承した。
ムーンライトブリッジは、シャドウが飛び散った際に学園近辺以外にも周辺に被害が出ていたのだが、
そのうち放たれたシャドウが襲った場所の一つとされている。
「どうしてムーンライトブリッジについて調べて欲しいだなどと言うのかと思ったんだが……こういうこと
だったのか?しかし」
「桐条先輩」
美鶴が首を捻っていると、背後から静かな声。
「藤草」
「それは、頼んでいたものですか」
「ああ、これで全てだ」
そう言って真田へ彼に束を渡すように言う。素直はそれを受け取るとそれらに軽く目を通した。
「……全部、ですか」
目を紙束に向けたまま彼は呟いた。真剣な目で紙をめくる。
「ああ……」
「……ありがとうございました」
ある程度目を通したところで彼は紙束を閉じて美鶴につき返すと、さっさとその場を離れようとする。真
田は思わずそんな彼を呼び止めた。
「おい、待て」
「はい」
「……どうして今さらこんなことを調べるんだ?」
真田の問いに、素直は表情を変えずに一言だけ告げた。
「知りたいことを、知りたいことだと気付いたから」
扉の前で5分ほど立ち尽くしていた。2回。
1回は、風花の部屋の前。自分の技量では大したことが分からないまま面倒なことになりかねないこ
とがわかっていたから。しかし駄目だ。素直には彼女を巻き込むことはできなかった。何もせずに扉の
前を立ち去った。
そして、もう1回。今この時。
時刻は10時少し過ぎ。ラウンジで談笑していた者も各々自室に戻る時間だ。その時間に、素直は4
階の作戦室にいる。
――ここを開けば、もう引き返せないだろう。
それを知りながら扉の前に立っている。
目の前の扉には『理事長室』とプレートが掛けられている。
桐条先輩に頼んだ『調べもの』の成果は、ある意味では予想通りだった。
分かったことと言えば自分の記憶通り、両親はあの橋で死んだということ。ただそれが裏付けられた
だけ。あの時橋で『何が起こったか』はほとんど分からない。事故の被害状況がつらつらと並んでいるだ
けだった。
――あの時確かに僕はムーンライトブリッジにいたはずだ。
自分の記憶以外にそれを裏付けるものは何もないのだが。
桐条の記録にも特別に変わった記録は見られない。両親の名は被害者名簿の中にあったが、『事故
死』という簡単な記載があったのみ。
……シャドウの襲撃に巻き込まれたのではないのか?……いや、それでは自分とて無事ではすまな
いのでは?……
……何故、はっきりと覚えていないのだろう?
分からないことがこんなにももどかしいのは、初めて。
知らなくてもいいこと。知らなくたって何ともなくて、そのまま時は過ぎ去ってしまうものなのに。
何故だろう。知らないことがこんなにも不安になるのは、何故だろう。
こんなに不安であるということが、何故今まで分からなかったんだろう。
何故、だろう。
「正当な」手段を通じて分かることがもうないのならば――自分が手を伸ばせるのは、もう、ここしか
ない。
シャドウとペルソナについての全てが詰まっているであろう場所、全ての責任者である理事長のデー
タベース。作戦室のコンソールをいじろうとも考えたが――普段、桐条先輩や山岸がよく使っているもの
だ。そこからあたっても特別な成果はない様に思う。寮に大切なデータを多く残しているのか疑問は残
るが、彼が手を出せそうなところはもうここくらいしかない。
扉のノブに手を延ばす。ひとまず掴んで捻ってみるが、当然ながら鍵がかかっている。
黙って提げていた小剣を握り締めた。
これを越えれば、戻って来られない。頭の中にアラームが鳴り響く。
理事長に、桐条先輩に、皆に怒られる――それだけで終わる、はずがないと警鐘が鳴らされる。
小剣を持つ手が震えている。
――これ以上は――いけない
自分の中の『何か』が言う。
――知ることは――決して、いいことであるとは――限らない
悲痛な叫びが響く。
分かるよ。でも、駄目なんだ。
――もう、引き返せないんだ。この気持ちを知ってしまった、今は、もう。
小剣を振り上げ、頭の上で静止。深呼吸を一つ、吸い込んだ息を止めて、暗闇に光る刃を、
ドアノブに、突き立てた。
⇒…進んでない。次回から急展開(のはず
2006/11/20